マヨヒガ

深くて暗い森の中、迷った者の目の前にそれは突然現れる。
遥か上を覆う葉の天井からこぼれた日の光に照らし出されて。

遥か昔からそこにあったようにそれは佇む。
その存在は自然で、種子から芽吹き、この森の大地に育まれたよう。
開いたままの木の扉はそれと出会った者を中へといざなう。

中に入るとまず目に付くのは食卓の上。
湯気立つスープにあたたかいパンと冷たい水。
そして奥には見るからに柔らかなベッド。
傍では暖炉に火が入っている。

誰かが住んでいる様子はない。
誰かが住んでいた痕跡もない。
そのありがたいもてなしは誰のものかわからない。

それでも孤独は感じない。
この小屋の雰囲気が語りかけてくるのが不思議と分かる。


さあ迷える私のお客さま。
お腹が空いて、喉が渇いているでしょう。
森の寒気に凍え、歩き通しで疲れているでしょう。

遠慮はせずに食事を召し上がって。
暖炉に当たって身体を温めて。


その語りかけは幼子を眠りへ導く子守唄のよう。
抗うことは思い付けない。

この小屋で眠った者は、翌朝朝食の香りで目を覚ます。
昨夜と同じスープとパンに水。
そして小屋はさあ召し上がれ、とまた語る。


さあ迷える私のお客さま。
貴方に帰り道を示しましょう。
小屋を出たらそのまま真直ぐにお進みなさい。
その先には貴方の帰るべき所があるはずだから。


小屋を一歩出ると迷えし者の故郷の森。
振り返るともうそこに小屋はない。
最初からそこにはなかったかのように。
最初からその者はここを目指して歩んでいたかのように。


この森を訪れる大抵の人間は知っている。
この小屋の物を持ち帰れば巨万の富を得られることを。

森に入る者の前にそれが現れるとは限らない。
現れないとも言い切れない。
富であろうが狩りであろうが目的は関係ない。
単純なる確率論。
一万人に一人見つけられるというだけの可能性の話。

しかし人は語り伝える。
どこにでもあり、どこにもない。
現れるべくして現れ、迷えし者に道を示す。
それが、現世と幻世を虚ろい彷徨う“迷ひ家”なのだと。


あとがき

 この詩も『髪結いの亭主』と同じく櫻田さんのところにある100のお題の1つ。『マヨヒガ』は柳田国男氏の『遠野物語』に出て来る都市伝説で、この小屋の中のものを持って帰ると巨万の富を約束されるそうです。
 この詩の『マヨヒガ』はそれにくわえて少し脚色しています。もともと書き始めたのだって櫻田さんが教えてくれたタイトルに僕が“まほゆめ”に使えないだろうかと飛びついたからです。それで取り敢えず詩でも書いてみようかと言うことで書いたのがこれです。
 情景描写が綺麗に出来たので僕は割と気に入っています,。


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